2021.06.27 09:42坊主の手前で つい先ほど、髪を刈った。坊主の一歩手前である。 この世の中で社会人として身をこなすのには、坊主頭になることさえも気兼ねするところがある。致し方ないことだ。「なぜ坊主になったのか」聞かれた際には、心機一転する意味もあり刈ってしまった旨、話すべきだろうか。ほんとうは心機一転も何もなく、暑いし坊主という語句を口にしてしまったからだが、やってしまったことは仕方がない。 髪の長さに関係なく、自分の段取りで...
2021.06.26 05:01「ことばづかいはむつかしい」 私たち人間はコミュニケーションをしなければ生きていけない。考えの遣り取り、およびそれに付随される実質的な遣り取りすら出来なくなるからだ。私たちは言葉(それは音声的・文字的なものに限らない)を使わなければやっていけない社会を所与のものとしてしまった。おそらくは意思疎通に苦手意識をもつ者には苦しい限りだろうが、私としては何とか折り合いをつけるしかないのだろうと思っている。 意思疎通にはありとあらゆる...
2021.06.24 11:32関係性を御する 人は加齢にしたがって関係性が増えていく。赤ん坊の頃には親・家族との関係がなかったものが、今は歳を重ねて顔も知らない人とのつながりも膨大になっていく時代である。それによって疲労困憊する者もいれば、意外にゆうゆうと生きている者もいる。 おそらく人は(成人したのちは特に)関係性との付き合い方を考えなければいけないだろう。誰彼全員によい顔をすることは出来ない。さもなくば、自分の目指していること、目指して...
2021.06.23 11:41実にならない発散 とりとめのない毎日に忙殺されると忘れたままになってしまうが、人間にとっては楽しさを発散するのが一番である。発散することで身体的にも心地よい負荷がかかるし、何より心に抱えていたものを吐き出すのは悪いことではないだろう。 「表現者」として世間に認められている者ではない人達にとって、発散する行為の多くは実にならない。金にはならない(逆に使う事にさえなる)。時間と労力も削られる。仲間がいなければ伝達によ...
2021.06.23 00:02薬の効用 人間、誰しもが病に冒されうる。やりきれない気持ちになることも多々あるが、仕方のないことだろう。あるいは、生きていること自体が、いつかは死ぬという病の過程なのかもしれない。 病について、今の世の中は数々の薬があり役に立っている。西洋医学の薬剤、東洋医学の漢方ふくめ多種多様な薬があるのだが、私としてはそれらの効用は気持ちの面が大きいような気がしてきた。 「病は気から」とはよく言うが、薬の効用という面...
2021.06.21 11:28よく食う子規 正岡子規『仰臥漫録』を読んでいる。今の読者からみると、死を目前にしている子規によって書かれたことになる本である。 しかしながら、内容はいたってシンプルである。朝昼晩に何を食べたか。誰が訪れたか。どんな自然のうつりかわりがあったか。家族はどう振舞っているか。それだけである。子規は気難しい人であるから、それらへの感想は独断的ではあるが、死の迫る中でそれでも周りと交わろうとする姿は凄絶である。尊敬の念...
2021.06.20 08:03言語にとって「無」とは何か 吉本隆明の講演による書籍、『日本語のゆくえ』(光文社知恵の森文庫)を読んだ。今回でおそらく四、五度目の通読だが、いまだに捉えきれていないところが大きい。 この文章は書評という形を取るものではないから、あまり本の内容について詳述しないが、吉本は第五章(終章)の「若い詩人たちの詩」という部で次のように語る。若い詩人たちの詩は「いってみれば、「過去」もない、「未来」もない。では「現在」があるかというと...
2021.06.18 10:17季語の実体感 今の時代、俳句の季語に実感を持てるであろうか。 私個人の見解を言うとすれば、季語に対して実感を感じている今現在である。俳句を始めるまで、季節の移り変わりはただただ過ぎ去る所与のものだった。しかし、様々な名付けをされた自然・風物は「季語」という形で、私にとって大事なものとして感じ取れるようになった。それがただの個人的な誤解によるものだとしても、季語を通してこの世のものと付き合えることは誠にありがた...
2021.06.15 15:52音数とライミング 日本の詩歌について考えてみたい。わが国で詩歌というものはどのように規定できるか。 日本古代に遡ってみると、和歌(そしてその元になった古代歌謡を含めて)では「音数」によって詩歌は歌われていた。誰しもが知っているように所謂和歌は「五・七・五・七・七」という音数で詠まれる。和歌には様々な形式があるが、その概ねにおいて五音と七音の組み合わせにより歌の調子を整えていた。今現在も同じように、調子良く歌うとい...
2021.06.14 02:58米をとぐ 題名は失念してしまったが、鈴木清順の映画に「炊飯の米をとにかく愛する殺し屋」が主人公のものがある。 殺し屋の中でもナンバーワン、ナンバーツーを争う腕利きの人物なのだが、米が好きすぎて(映画の中では)彼が炊飯器を抱いてうっとりとするカットが何遍も挟まれる。激しく理知的な銃撃戦の後や、美女を抱いていた後に映されるそのカットには、彼の生命力とでもいうべき米への愛があり、私には特に印象に残っている。 自...
2021.06.12 02:15俳人と廃人 俳句を詠む者を一般的に「俳人」という。しかしながら俳句を詠むなどということは、何の実利も産まないということは周知の事実である。「俳人」という肩書きのほかに「学者」「タレント」などがあれば話は別だが、俳人は一人では何の価値もない文字通りの「廃人」である。 しかし俳人であればこそ見えることもある。俳人は作家ではない。さらに言えば俳句作家ですらない。「作家」という肩書きを捨てた時、見えるものは何か。私...
2021.06.09 15:14社会派でも芸術派でも 人間の立場について考えてみたい。この世の中において、人は様々な立場を持って生きている。子供・大人・若者・金持ち・貧乏人、挙げていけばキリがない。それくらいこの世の中は多種多様なものになってしまった。立場の数は人の数だけあるといっても過言ではない。 一人の人間の中にも様々な立場が渦巻いている。会社員でありながら四人の子供の親、といったこともあろうし、作家でありながら映画も写真もやるといったこともザ...