言語にとって「無」とは何か

 吉本隆明の講演による書籍、『日本語のゆくえ』(光文社知恵の森文庫)を読んだ。今回でおそらく四、五度目の通読だが、いまだに捉えきれていないところが大きい。

 この文章は書評という形を取るものではないから、あまり本の内容について詳述しないが、吉本は第五章(終章)の「若い詩人たちの詩」という部で次のように語る。若い詩人たちの詩は「いってみれば、「過去」もない、「未来」もない。では「現在」があるかというと、その現在も何といっていいか見当もつかない「無」なのです。」と。

 私は学生時代から現代詩も短歌も俳句もしており(今でも俳句だけは続いている)、いわゆる直観的に吉本の「何もなさ」に深く首肯できる。その理由はいわく言い難いもので、勿論今の詩人・歌人・俳人の態度自体とも関わるから言及はしないが、彼ら彼女ら自身とその作品において「『結局、詩なり歌なり句なりで何を感じたいのか、残したいのか』という本質への意識が、対象との向き合い方として薄すぎる」と示しておくことにする。

 「若い詩人の詩は『無』だ」という吉本のこの読みに対しては、詩人からは毀誉褒貶があったらしい。私はそのことをリアルタイムでは知らないので反応についてはよく分からない。世代間ギャップということもあるだろう。また、吉本の問題意識自体が、「古代詩からの悠久たる流れから、現代の詩を捉える」というところにあるようなので、そこのところで当時の新鋭詩人や中堅詩人とすれ違った可能性はあると思う。

 また吉本は「わからない」ということも口にする。私の見解としては「無」という発言よりかは、この吉本の「わからなさ」から思考する方が糸口があると思う。

 吉本のこの「わからなさ」は二種の形を取っている。

 ⑴若い詩人による「詩自体」が分からない

 ⑵若い詩人が「なぜこういう詩を書くのか」が分からない

 このことに関しては、吉本隆明が培ってきた詩の鍛錬とは別のところで、若い詩人が詩を書いている可能性はある。恐らくはそうなのだろう。この部分より後で、吉本は「詩において『自然』が無くなってしまえばどうすることも出来ない」というようなことを言う。この発言は、少なくとも近代からの詩の伝統からすれば、という留保をつけている。しかしながら、「自然のない」ところから詩世界を広げていくのは相当にきつい作業としている。

 このことは(私なりの言葉で言えば)「詩歌句にとって立派な他者を感受する『他者感覚』を失っている」という事なのではないか。現に実社会で、相手と切った張ったという風な交渉をしなければならない人々はまず現代詩など読まない。これははっきり言うなら「他者感覚のない物事に付き合う義理も暇もない」からではないのか。

 吉本は最後に、詩だけでなく現代の日本社会の「わからなさ」にも言及する(その例として「新聞の見出しがなぜ取るにたらない文句となるのか」ということを挙げている)。吉本は亡くなってしまい、私たちには「わからなさ」が加速していく日本社会だけが残された感がある。

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