季語の実体感
今の時代、俳句の季語に実感を持てるであろうか。
私個人の見解を言うとすれば、季語に対して実感を感じている今現在である。俳句を始めるまで、季節の移り変わりはただただ過ぎ去る所与のものだった。しかし、様々な名付けをされた自然・風物は「季語」という形で、私にとって大事なものとして感じ取れるようになった。それがただの個人的な誤解によるものだとしても、季語を通してこの世のものと付き合えることは誠にありがたいことである。
しかしながら近代からの俳句の歴史は、実体感をもって季語ひいては自然・風物と付き合う方向には行かなかったように思われる。もちろんその原因は、俳句界のみならず「自然などの物事と付き合わずに先鋭的な方向を目指した日本」そのものにあることは言うまでもない。近代化、工業化によりまず日本的な自然は根こそぎにされた。公害の問題、公然たる自然破壊の問題はなおざりにされた。そして、令和時代の子供は都市としての日常しか知らない者も少なくないだろう。
季語という言葉を通すものの、圧倒的に他なる存在である自然がなくなった時、人はどんな句を詠むか。ここに例示することは避ける。端的に言わせてもらうと、自身の観念的な操作による句作へと向かうことになる。俳句にはもう一つ他なるものとして「五・七・五」の定型というものもあるが、観念的思考のループに陥った者にはおそらくは定型すらも障害と見える可能性もある(ここでは定型についての議論は避ける)。
私見だが俳句という形式は、他なる自然・風物といった相手が確かに存在しなければ意味がないと思う。ここでの「意味」を深く述べるのは難しいが、相手がいない自己完結としての句作ならば、自身の張り合いや手応えに結びつかない、とでも言おうか。それがなければただの気の利いたコピーライティングと変わらなくなってしまう。それは季語としての自然・風物、定型に主に代表される他なるものに失礼だろう。
私自身は(ただ観念や面白さに移ろうだけの世間に対して歯痒く思いながら)実感は手放せずにいる。多分、この情緒を理性的に述べることは出来得ないだろう。そして勿論、人間は情緒のみでは生きていられない。この世で衣食住をこなしながら、生を繋がなくてはならない。ただ、その生を世間と妥協させるには、今の実感は大切すぎる。歯痒いものの、自分の作品にも他人の作品にも言及せずに(季語について、そして他なるものについての実感を)散文として整理させるには、ここまでしか言えなかった。
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