音数とライミング

 日本の詩歌について考えてみたい。わが国で詩歌というものはどのように規定できるか。

 日本古代に遡ってみると、和歌(そしてその元になった古代歌謡を含めて)では「音数」によって詩歌は歌われていた。誰しもが知っているように所謂和歌は「五・七・五・七・七」という音数で詠まれる。和歌には様々な形式があるが、その概ねにおいて五音と七音の組み合わせにより歌の調子を整えていた。今現在も同じように、調子良く歌うということは気持ちが良い。古代人たちは五音と七音の組み合わせによる歌で、朗々と調子を整えていたのであろう。

 しかしながら、現代の詩では音数、それも五音や七音という音数によって朗々と歌うということは少ない。ギミックとして使う者がいないわけではないが、日本的な形式の尊重としての姿勢はあまりみられない。逆に言えば、それくらい現代の詩歌(この中には現代詩だけでなく現代短歌、現代俳句や今のポップスなども含まれる)には形式が残っていない。

 私は日本主義者ではないから今のものも十分楽しんで享受している。ただ、日本の形式を継ぐことで開かれる場もあるのでは、と思うことはある。今の時代には日本の形式ということを言うのも憚れるが、この国の形式の変遷について考えることは間違いなく必要であろう。

 翻って、西洋における詩歌は(日本のように「音数」ではなく)韻つまりライミングによるところが大きい。今現在、日本語による現代詩では韻を踏むということは重要視されないが、西洋では当たり前のように韻を踏むという行為は営まれている。

 日本においては韻を踏むということは意識化されてこなかった。昨今のラップなどの流行で安易に意識される場合もあるが、ライミングが詠み・歌いの調子を良くする方向に志向できる者は限られている。ライミングがただのギャグになりがちだからだ。また、西洋のようなライミングの歴史性がないという一事も大きい。

 音数とライミング、その両輪を考え抜く段に来ているのではないか。西洋による近代化から遠く離れながら、近代についての思考が未だ甘い日本の詩歌には不可欠なのでは、と私は思う。

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