俳人と廃人
俳句を詠む者を一般的に「俳人」という。しかしながら俳句を詠むなどということは、何の実利も産まないということは周知の事実である。「俳人」という肩書きのほかに「学者」「タレント」などがあれば話は別だが、俳人は一人では何の価値もない文字通りの「廃人」である。
しかし俳人であればこそ見えることもある。俳人は作家ではない。さらに言えば俳句作家ですらない。「作家」という肩書きを捨てた時、見えるものは何か。私の実感からものを言えば、まず見えるものは自然の風物だ。肩書きというものは所謂、社会的なものである。その枠から外れてしまった俳人には、この世の風物、それも世間の垢がついていない風物が目に入ってくる。
おそらくは「季語」という言葉は、今の世の形式を越えたこの「風物」を言語として捉えるために必要になるように思う。言葉自体、人の一存でどうにかなるものではない。ましてや(自然が巡り出した時点から存在する)日本の四季より生まれた「季語」は、相当な歴史性を持つ言葉である。もちろん、どうやって出来上がったかを考えると、古代中国からの日本の歴史性が含まれるから自律的なものではない。しかしながら、完全に自律的な人間などいるのだろうか。少なくとも「季語」という存在自体は、人の一生など優に越えた歴史として残っている。
俳人という存在はろくでもない、と私は折りにふれて思う。しかしそのろくでもない俳人も悪くない。ただ、この「悪くない」という感覚から一歩も出るわけにはいかない。俳句を詠むためには出会うための風物が不可欠だ。あるいは自意識や自己存在などは必要にすらならないのかも知れない。「俳人」という存在に社会的・世間的立場を付与したその途端に、社会的価値による俳人および俳句の囲い込みが始まる。その行為と、日本の風物たちは全く無縁だ。私はそう信じるからこそ「悪くない」という実感を手放さずにいる。
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