社会派でも芸術派でも

 人間の立場について考えてみたい。この世の中において、人は様々な立場を持って生きている。子供・大人・若者・金持ち・貧乏人、挙げていけばキリがない。それくらいこの世の中は多種多様なものになってしまった。立場の数は人の数だけあるといっても過言ではない。

 一人の人間の中にも様々な立場が渦巻いている。会社員でありながら四人の子供の親、といったこともあろうし、作家でありながら映画も写真もやるといったこともザラにあるだろう。多様性を担保することが現代の社会においてアドバンテージだとするなら、何十個もの立場を使いこなす者がいたとしてもそれは案外普通のことなのかも知れない。

 さて、では人はどのように立場を使いこなすのだろうか。人間がどうやって使いこなすのか、私には今いちピンとこない。

 ある作家が居るとする。彼・彼女の中にはあらゆる可能性がある。どんな作品スタイルも選び取ることができる。現代のような選択肢の多い時代には当然のことだ。そして一人の作家自身はこれからの未来に心躍らせている。

 しかしながら、数多の選択肢のなかで何かを選び取らなければならない。長編小説家になるのも良い。あるいは俳人になるのも良い。ただ創作形式は案外限られている。

 全てに触れてみるのもいいだろう。そう安易に考えることもある。それでもその安易さの虜となって、自身を見失ってしまえば元も子もない。

 形式の点だけでも多く難点がある。表現スタイルの問題まで広げて考えると、思考だけでは追いつかないことになってくる。自身の立場を社会派だとか芸術派といった概念的なものとした場合のことを考える。その概念的立場を、今現在生きている自分が裏切ってしまった時、どうするか。それからの自分は、永遠裏切りを続けていかなくてはならないのではないか。

 己を概念的思考に収斂させてはいけない。ましてや今を生きている自分の立場を「社会派」や「芸術派」などに売り渡した時、悲劇が始まる。それだけが確かなことである。

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