思考をどこで留めるか
「人は考える葦である」と哲学者パスカルは言う。この言葉は、「思考」という人間の営みについてどう思った所から吐かれているのか。
大抵の人は「考える葦」という表現に「小さな存在としての人間が持っている思考能力の偉大さ」を読み取る。我々は葦のように弱い者だが、それでも考えるという素晴らしい能力を持っている。物事を考え抜いた哲学者だからそう言うだろう、と捉えることが多い。
しかし私は思う。物事を考え尽くした哲人だからこそ、「思考という行為の限界」に行きついてしまうのではないか。もしパスカルが考えるという事そのものに対して苦渋を舐めたのだとしたら、その限界に辿り着いていてもおかしくはない。そうだとしたら、「思考出来る人間という存在は素晴らしい」という趣旨は雲散霧消する。「人間は考えたとしても葦のように些細な存在でしかない」という見識を一言に込めた可能性もなきにしもあらずだ。
今から述べるのはごく常識的な事だが、人間は思考活動のみでは生きていくことは出来ない。何か決断をしなくてはいけないし、その決断の目的は「己自身の行動」である。もし考えるのみで何もしない人間がいたとしたらもう人としての感覚を失っている可能性は高い。人間の一生、人生を実りある経験にするのは間違いなく行動によるものだ。そしてあるいは考えなしの行動によって大きな痛手を負ったとしても、だからと言って人間は動き働くことをやめはしない。
だが人間は意識活動として「思考」という営為からは離れることが出来ない。その一事も同じく間違いないことだ。考えるという営為が行動を、そして人生を豊かにすることは確かで、おそらくは社会の中の人間はそうして生を営んでいる。
この際、問題が少なくとも一つある。思考をどこで留めるかという問題である。人間は自身でその「留め」を定めなければ永遠考えてしまう存在である。その意思決定は時と場合に応じて、己で定める他はない。自身の思考および行動の情けなさにほとほと嫌になることもある。それでも己の人生なのだからその情けなさを引き受けるべきだろう。
思考の「留め」を自在に為せた時、人はあるいは「考える葦」であることを忘れている。パスカルの言葉の真意は定かではない。しかし、真意とは関係なく実りある思考および行動を為すことが、人間としての定めではないだろうか。
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