「当事者研究」とは自分語りではないのか
昨今、さまざまな精神疾患を抱える者において、自身で「当事者研究」と呼ばれる散文を物す人が多くなってきた。またこの時流に乗る形で、「発達障害」と診断された作家や大学教授などが、それにまつわる著作をつぎつぎ出版するケースも多くなってきている。
私も高校時代に「統合失調症」という診断を受け、今も「自閉症スペクトラム障害(ASD)」という診断を保ち通院を続けている。さらに主治医から当事者研究をすすめられたことがあった。しかし私は今でも以上のようなマイノリティーを看板とする者が極端に多くなった社会に違和感がある。ましてや初めは「自分自身をよく知る」ための手段であった当事者研究が、出版ジャーナリズムの中で大手を振って利益のために本として刷られており、どう考えてもおかしいと思わざるを得ない。
確かに同じ障害を持ち合った者同士ならば、作家と読者のあいだでうなずき合ったり、あるいは(これは私なら虫酸が走るが)慰めあったりするのだろう。また今の時代のように精神疾患に罹患する者が多くなった場合は、どこか誰かに参考にできる箇所も出てくるかもしれない。
だが、私の側から言わせてもらえれば(精神疾患者である身からしても)、ただの出版的消費材としか思えない。おそらくはこの社会に同じ診断の人は居るのであるからして、マーケティングとしても一定の購買層を獲得できる。さらに先に書いたように、最近は無名の作家を起用するのではなく、すでに著名な者の中で診断を下された者が当事者研究をものす場合もある。全ては出版マーケティングの中で、「当事者研究における慰めあい」が行われているのだ。
では果たして題に記したように当事者研究は自分語りであるのかどうなのか。これをもう一度胸に手を当てて考えてみるべきだろう。もちろん自分語りであっても別に構わないのだ。当事者研究は自分でみずからを知るための「手段」なのだから。しかしながら、そのただの手段をおいそれと本として刷り、出版マーケティングの流通経路に乗せてしまうのは違うのではないか。人の人生は「精神疾患の診断」で決まらないと私は思いたい。ましてや世の中でどれだけ流通するかで人生を測られる事を否定したい。ここからは自分語りどころかただの愚痴になってしまうが、まだ私は社会から弾きとばされたり置いてけぼりにされたりしている自分を受け入れられないのである。かと言って世の中で出版ジャーナリズムに乗っている者達の列に入ろうという気にもなれない。ならどうするか。ただの愚痴にならぬ普遍的な自身の型を見つけるしかないだろう。
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