臨界を知る

 文学というジャンルにおいて「小説」が主流になってから長い時間が経っている(ここではあえて「歴史」という言葉ではなく、「時間」という語句を使っておく)。書店などをのぞいても、一番文学として流通しているのは小説だろう。文学における自律性・この消費資本主義社会での貴重さを担保するのは、流通の良さでは断じて無いが、そんな理想を嘲笑するかのように、日々沢山の小説が刷られ日々捨てられていく。
 そうした現在の社会の中で、古典と呼ばれ得るような作品は生まれるだろうか。
 私の机上に一冊の本がある。井伏鱒二『山椒魚』(新潮文庫)で、それこそ戦前期から生き残っている古典作品であるが、卑近な日常の描写でさえありながら堂々たる書きっぷりである。一篇「山椒魚」について触れてみたい。岩場に閉じこめられた山椒魚のすがたをユーモラスに描いているわけだが、書き手と山椒魚自身とのあいだの距離感がぶれることがない。そして作品そのもの自体が何かの心的形象の象徴として作り上げられているような気がしてくる。(ここが最近の、井伏などを尊敬すると言う純文学作家とちがう所だろう。今の純文学作家は、詰まるところ「象徴の造形」には興味がなく、「立派な小説をかきたい」との自意識があるだけなのだ。)
 私自身は、「井伏が何故こんな卑近な材で詩とも言うべき小説作品を造形しようとしたのか」かなり興味がある。ここからは只の私の見立てに過ぎないけれど、井伏鱒二は自身の人生において、生と死において、何らかの臨界を知ってしまった人間なのではないか。また、これも私の推測に過ぎないけれど、「古典」と呼ばれ得る作品がこれから生まれるとすれば、そのような臨界を知った人物の手によるものに違いないように思われる。

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