一生の終りはどう仕舞うか/仕舞われるか
人は日々の雑事に追われ考えるよりも瞬時での行動が多くなると、人生が進んでいる感覚が優位になり「死」の存在を忘れることができる。つまりは(人は「死ぬ」ことによって一生を完結できるのだとすれば)生と死の相補的な関係によって完結する「全体感」を感じずに生きるようになるということだ。
もちろんそれ自体は悪いわけではない。さもなくば「死」を四六時中内面化することになり、その生自体たいへん辛い苦闘を強いられてしまう。(一つ付け加えるならば、いわゆる本当の「詩人」はこの営為に耐えられるうちに本当の「詩」を生み出すことだろう)
だが、人間は周りの「死」を経験し、自分の一生がどう仕舞われるのか、という問題ににじり寄られる。と同時に、ごくわずかな自力の部分である、一生をどう仕舞うことにするかも考え、尽力する者はその死を目前に格闘する。
(だがこの文を考えている私自身はどう死ぬかは分からない。まだ二十代ということもあり、どう生きるかも定まっていない。あるいは一生を棒に振る覚悟も必要かも知れない)
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