文学の価値について

 文学という芸術分野は、言うまでもなく言葉によって成り立っている分野である。言葉はおおよそ万人が使用できるものであろう。よって、「どのような文学作品が価値があるのか」という問いへ十全に答えることが非常に難しいように思う。ともすれば「人によって価値観が異なるのであるから、ある作品の価値など一人一人で変わってしまう」「文学作品の価値など決めることはできない」というような相対的な論議に終始してしまうこともあるかもしれない。

 だが、幼い頃から言葉・文学が好きであり、かつ様々な価値の転変すらあった私は、「文学の価値の高低はある」と断言せざるを得ない。

 では文学の価値はどのように決まるのだろうか。この問いに答えるには、少し回り道をせねばなるまい。

 人間は一人一人自立している(あるいは自立すべき)存在であることは言うまでもない。色々な共同体の中で共有するものはありつつも、自身の意識の面倒は自身で見なければならない。上面の交流によって、慰められることは多々ある。しかし、何か一つ自身に自立的な問題が立ち上がった際、人は己一人で取り掛かることを余儀なくされる。

 ただここが重要なことだが、一人一人のその問題の内容はそれぞれ違うにせよ、生きる限りそのように立ち向かう契機が必ずやってくることは間違いない。この「生きる限り自立的な問題に立ち向かわねばならない」という事実自体は皆が共有している。

 芸術分野のうちでもおそらく文学は、この事実自体を大切に守るために存在しているように私は思う。色々な文学に対して一人一人好き嫌いはあるにせよ、文学作品が示しているのは人間が生きる、という自明に対しての姿勢である。

 ここに至り、ようやく文学の価値を定めることができるような気がする。私の独善的な答えかもしれないが、文学の価値とは「その文学作品がどれだけ深く『人間が生きる』という一事に真摯に向き合えているか」によって決まるのではないか。それはあくまで言葉の意味内容のみに限らない。その言葉という存在に共有性がある限り、作者の真摯な姿勢が表れれば表れるほど(どんなに違う世界のことがどのような形式で記されていようと)「人間の生」は浮き彫りにされる。生きるという一事は万人に共有される大問題である。だから立派な文学作品は長い間多くの人を感動させ、身をも動かすのである。

 今の世の中は、経済的なシステムや心理的枠組みによって、文学の価値そのものの上に何重ものベールがかかっている。それを引き剥がして本質を見極めるのは至難の業だが、上記のような捉え方はおそらく最も広く深い視座を生むのではないかと思う。



 

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