素直さについて

 齢を重ねるごとに、人は要領よく物事を整理しなければ生きていけない。金銭含めた実生活上の問題、感性が削られていく精神的な問題、生きていけば必ず問題にぶつかる。その道行きの中で、自身の「素直さ」を捨ててしまう者も少なくない。

 素直さを捨てる、ということは、自分の情緒的な流れを阻害するということである。自然に感動するであろう場面で感情をおし殺す。あるいは好きなことを好きである事実を捻じ曲げて、体面よく振る舞う。そのように生きていくと人間はどうなってしまうであろうか。私は答えることができないが、何か大事な物事を失ってしまうことは間違いないであろう。

 白洲正子は自著、『いまなぜ青山二郎なのか』の中で、批評家の小林秀雄について語っている。小林はその難解な自身の文章の影響か、晦渋な人物であるように思われている節がある。世間では「批評」と聞くだけで敬遠される部分があることも事実だ。

 ただ白洲は、小林さんは本当は至極純粋な人間だったのではないか、と問う。

 小林はある時期、精神的に不安定な恋人と付き合っていた。恋人は自分の座る絨毯以外の場所は不潔として、服の裾が少しはみ出ただけで喚いたり、もっと危険なことには小林秀雄を地下鉄の線路に突き飛ばしたりもしたらしい。だが、小林は律儀に徹底的に付き合った。

 ある晩、恋人が一睡もしないことがあった。小林はつきっきりで面倒を見る。そして朝になり、彼は外に出た。戸外には畑があり、キャベツに朝露が光を浴びてきらきらと光っていたという。

 その時、小林は「もうやるべきことはやった。思い残すことはない」と直観した。そして着のみ着のまま、恋人から離れ奈良へと逃げていくことになる。

 白洲はこのエピソードが印象に残っていると記し、小林さんは自然の風物から直観的に教えられることは多かったであろう、と言う。批評をすると言う営為は斜に構えるように思われがちだが、素直さがなければならない。そうでなければ、自分の感動を引き受け文章など書けないのではないか。

 世知辛い世の中を生きるのはやり切れない。ただ、私自身もきらめく朝露に感動を受けるだけの素直さを忘れないように生きていきたい。

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