死を勘定に入れる

 鎌倉時代の僧、親鸞は死について次のように言っているそうだ。

 人はいつ、どのようにして命を落とすか分からない。そのような死の問題に対して、深く思い悩むのは無益なことだ、と。

 人間は、そして生物はいつか必ず死が訪れる。だが、死のことにかかずらわり、精一杯生きるということがおざなりにされる場合も多々ある。また死ぬという一事に対して考えをめぐらせたところで、どのようにその人が死ぬのかなどは全く不明瞭である。親鸞の言葉は、おそらくは死という漠然とした存在に対して、生という営為が蝕まれていくことを戒めた言葉のように、私には思われる。

 だが、今の時代には、死ぬという前提すら忘却されてしまう部分がある。あるいは忘却しようと努めてしまう、とでも言えようか。科学の発展や日々の日常の慌ただしさ、単なる思考力の粗末さなどにより、ただただ生きている者が多い。

 そのような時代には、親鸞などの言葉は誤って受け取られてしまう可能性があるだろう。もともと親鸞の言説にはそういった側面があり、有名な「悪人正機」にも(わざと悪いことをすれば往生できるとするような)「造悪論」を生んでしまった過去がある。

 ではこの時代においては、人はどのように語ればよいのだろうか。おそらく死の問題に限られない、コミュニケーションにおける語り口の問題になってくるだろうが、生き死にについて言えることは、「人は常に死を勘定に入れなくてはいけない」という事実なのではないか。

 人間について最も重要なことは、人生を精一杯生きるということである。人が路頭で次々死んでいったような親鸞の時代には、死の恐怖から生を守るために前記のように語るしかなかった。生を賦活させる言葉を、親鸞は吐きたかったのではないか。

 死という存在を忘却したり見なかったことにしようとする今の時代状況では、「死について考えることは意味がない」という言葉も、「もっと死を意識しろ」という言葉も、生の賦活に響きはしない。私のようなただの人間が考えることではないが、間違いなく、「死を勘定に入れて、精一杯生きろ」という言葉が一番しっくり来るような気がしている。


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