感動と鑑賞

 私は古美術や骨董の世界にくわしいわけではないが、その内の焼き物に「鑑賞陶器」と呼ばれるものがあるらしい。例えば茶道などには「手で使うための道具」が尊ばれる。いわゆる茶碗や花入などは、茶を愉しむという場のためにあるものである。それと比して「鑑賞陶器」は、生活で実際に使われるものではなく、純粋に「見ることのみを楽しむ」陶器のことを指す。

 「鑑賞陶器」は今でも美術館などに入ったり、コレクターの垂涎の的になったりしている。それだけ価値があるということだが、ここからが本題である。

 果たして陶器において(これは陶器に限ることではないのかもしれないが)「見ることのみを楽しむ」というのは良きことなのだろうか。

 名の知られた名器を見に美術館に駆けつける人達、あるいは何とかコレクションに入れたいとして大金をはたくコレクター、そういった人間は、「見ることの価値」をどこに置いているのであろう。勿論、見ることによって知的好奇心や満足感を得る、という側面は容易に考えられる。だが私は思う、「そのような興味関心から見ることに拘るのであれば、何も陶器鑑賞などという営為に限らなくてもいいのではないか」と。

 私は骨董の世界など全く知らないので口を出すことはないのかもしれないけれど、陶器市などに行くと、これは、というものに出くわす。勿論ふところ具合と相談するが、その場には知的好奇心も満足感の充足なども微塵もない。ただ手に入れたいから買うのだ。そこには紛れもない感動がある。

 また出会ったからには色々な場で交わりたいと思うのが人の常であろう。食事の場で使ってみたり、酒を注いでみたり、陶器とは陶器となりの付き合い方がある。出会いの感動があり、そこから交わりが始まる。割れることもあろう。飽きて食器棚にしまい込むこともあるかもしれない。だが、そこには共に過ごした時間がある。

 安易な鑑賞というものを受け付けない、そうした世界は確かに存在する。そして、鑑賞するのみで感動すら忘れた者は、日々動き続ける人生の機微を感受することなく一生を終える羽目になるのではないだろうか。


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