マイノリティーと社会

 近頃、社会において「平等」ということに対する意識が敏感になっている。ある社会的弱者及び集団に対しての差別が行われた、とされると、様々な形で制裁が加えられることが多い。社会での肩書きの剥奪、強い反感からの提言など、マイノリティーの側からの力によって、ある「差別的存在」が批判・非難されるのは普通のこととなった。

 この社会の中から差別が消え、全ての人々が平等となることは良いというのは間違いないであろう。あるいは差別が消えないのだとしても、これまで貶められ続けてきた人々が社会において生きやすくなるのは素晴らしい。

 しかしながら私は、「平等」についての今の世の中の風潮は、衝動的な力となりすぎていると感ずる。あるいは、ひとまず「平等な社会」が実現したとして、差別を批判してきたマイノリティーの人々はその後の個々の生き方についてどれほど思考しているだろうか。

 人と人の間には、必ず力関係が発生する。これは社会的階層や社会的圧力がなくなったとしても、必ず生まれてくるものである。おそらくは差別に対する批判運動はこうしたパワーバランスのあり方について、法外なものを無くしていく流れなのだと好意的に捉えることはできる。男女差別や障害者差別、人種差別の問題を理解すればわかるが、私たち人間はこのパワーバランスについて法外なほどまでに格差を黙認しすぎてきたのだ。

 差別的行為はそうしてエスカレートしてきた節がある。その暗黙の差別是認に対して、声をあげ是正を訴えているのが今のマイノリティー尊重の流れであろう。おそらく社会的な圧力をもって戦っていかなければ正すことはでき得ない、と考えるのは当然の思考だ。

 だが、一人一人の生き方において、差別を無くすことはできない。それは一人ひとり胸に手を当てて考えてみれば分かることである。人間が人間と関係するのならば、誰かを軽蔑したり見切ったりすることは誰しもある。さらに言えば、この感情的な側面すら「是正」するのだとすれば、この平等を目指す今の風潮は、人間による関わり合いの多くを捨象してしまうことにならないか。

 マイノリティーの側には血が滲むような辛いことがある。ただ、だからと言ってその差別による経験を、包括的に他者の責任として是正を求めるのは人間的にどうなのだろうか。社会的に差別を認定され、社会的平等が実現したとして、マイノリティー一人一人は何をするのか。おそらくは人が生きるという一事について路頭に迷うことは目に見えている。

 最後に付記しておくが、私自身、「精神障害者」として国から障害者認定を受けている。だが、マイノリティーとして社会に求めることはない。なぜなら「マイノリティー」という属性を自身で身に纏い、人間関係を築いていくことに興味がないからだ。私は、人が人と関わるとはそんな皮相なものではないと思っている。



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