死に際にーーばななと隆明

 吉本ばななのエッセイに、父・吉本隆明との最期を描いたものがある。

 吉本隆明はいつも、「家族の者が病気になっていたとしても、自分の大事な予定などは飛ばしてはいけない。病身の方は『自分の都合で飛ばさせてしまった』と感じてしまうから」とばななに話していた。ふつうなら「家族のことは一番に優先するべき」と聞くのが多いだろう。少なくとも吉本家はそうではなかった。

 父・隆明がいつ亡くなるか分からない、という容態の時も、娘・ばななは海外での仕事などもしっかり向き合っていた。自分の人生は自分の人生、人の人生は人の人生である。それは家族であっても変わりはしない。おそらくは吉本隆明が伝えたかったことはその一事であったのだろう。

 さて、そのような父娘がある日病室で向かい合う。父はベッドに横たわって動けない。娘は思わず父の手を握った。

 すると父は、娘の手を握り返してきた。その瞬間、娘・ばななは「この人はたった今、自分の人生のカルマ(業)を断ち切ろうとしているのだ」と直観し、こちらも握り返したという。

 前述したエッセイにはそれだけのことしか描かれていない。おそらくは何も感じない者は感じないものであろう。ある意味で記述された内容はひどく漠然としているから。

 私はこのエピソードに一つ補助線を引いてみようと思う。

 吉本隆明は生前、様々な媒体に自分の家族について語っている。しかしながら、母親についてだけ及び腰であり、ましてや「僕は小さい頃、母に可愛がられた覚えがない」とさえ言っている。

 エッセイでのばななのように、隆明も「もう少し頑張れ」と、病室の母親の手を握ったことがあった。母親が「もう頑張れないよ」と握り返す。その時、息子・隆明は「こういうのは俺は嫌だな」とはっきり思ってしまったそうである。

 「母親に可愛がられた覚えがない」という思考・発言は、その出来事を受けてのものだが、吉本隆明自身にも結婚、子育てを経て老いそして死期がやってくる。

 娘のばなな自身が、父の以上のような出来事を知っていたかどうかは定かではない。しかしながら「カルマを断ち切る」という、言ってしまえばスピリチュアルな語句の内実は、吉本隆明がこの母との関係を死期にあたって整理出来得た、と娘が受け取った一事を示しているのではないか。

 このエッセイを思い出すたび、少なくとも私には、伝達、伝承に対する父娘の間の信頼感がしっかりと胸に迫る。名批評家、名小説家とは、現実においてもかくあるものなのだ。

活字的キャンプ生活

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