物と事

 日本には「物事」という言葉がある。目の前に現れている対象、それは「物」であり、次々と起こっていく出来事、こちらの方は「事」とみなすことが出来よう。日本語として、西洋言語などのように画一的に定義することは難しい言葉ではあるが、「物事」はその二つを合わせ世界を捉えようとした証でもあるだろう。

 仏教的な考え方ではこの世には「事」しかなく、「物」は存在しないとさえみなされると聞く。かなりラディカルな考え方である。おそらくは仏教の生まれた国、インドなどではそこまで突き詰めなければ救われないほどに環境が壮絶なのだろう。目の前の対象をよすがにせずに、直接的に世界の出来事を捉えるこの考え方は、日本人の私には受け入れるのが難しい。この世に無心となれたならば「事」のみの世界に安住できるのかもしれないが、仏教的に煩悩とされるとしても「物」との関係を断ち切ることはできない。

 人は出来事のみで生きるのではない。目の前にある対象、時間が過ぎ去ってしまえば失われるかもしれないものとの関係によっても生きる。この国では未だ四季という時間感覚が残っている。春になれば花が咲き、夏は陽光照りつけ、秋に葉は色づき、冬には寒さがやってくる、という巡りの中で、日本人は自然の風物との出会いを感ずる。そして季節の移ろいにおいて、愛した風物との別れをも経験するのだ。その交わりを「事」のみに還元することはできない。「物」への愛着はどこに消えてしまうのか。少なくとも私は「物事」のある世界に生きていたい。

 しかし日本は近代化以後、西洋の影響を受け「物」の物理的な把捉に終始するようになってしまった。西洋においてはデカルトからの歴史的な潮流である。その近代化という潮流が良きにつけ悪しきにつけ、西洋にはその歴史性がしっかと横たわっている。日本は(軍事などの現実的側面はあるにせよ)それを受け入れたが、まだたったの二百年も経っていない。その結果、「物事」という言葉に表れるような、情感のもつ世界観を見捨てている。

 私の実感だが、おそらくは日本人は「物」と「事」の交感の世界から遠く隔てられた時、異常をきたすのではないか。具体的な例を挙げるのは避けたい。しかしそのような異常な事態はそこかしこで起こっている。

 まずは目の前の「物」に向かうことからであろう。もちろん出来事を仕分け、「事」から時間的に味わっていく方策もあるが、私は目の前の風物から身を避けることができない分際なのだと、最近は身にしみて思っている。


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