前衛について
「前衛」という語が芸術分野に使われるようになったのはいつからであろうか。文献調べをしているわけではないから詳細は置いておいても、この語はもともと戦争用語であるように思う。戦の前線で初めに敵陣とぶつかる軍のことを前衛と言うであろう。それが(二十世紀の大戦などで)芸術の方にも使われるようになったのだと思う。
一般的に、芸術において「前衛」と呼ばれる作家群は、難解な作品を作ると称されることが多い。例えば二十世紀前半に起こったシュルレアリスム運動においては、物や物、言葉と言葉との連関が突飛であり、その影響で読み解きが困難な場合さえある。では、彼らがそのような方策を取ったのは何故か。その理由にはまさに戦争の影響が深く影を落としている。
シュルレアリスムの作家たちは、その当時ヨーロッパにて莫大な被害の出た第一次世界大戦を強く意識していた。大戦ではこれまでの人間の予想を超えた、とてつもない物事で溢れかえっていたのである。人間の大量殺害を可能にした火炎兵器や毒ガスなどが例だろう。そのような世界の中で、芸術はこれまでの知性・感性・理性で拮抗し得るのか。これがシュルレアリスム作家が抱えていた問題である。
彼らは芸術世界の前線を進ませようとして、物や言葉の連関の仕方を飛躍させることを着想とした。それは現実世界との拮抗にあり、文字通り「戦争」だったのである。もし芸術が破れたならば、この世は悲惨な現実の垂れ流しになってしまう。芸術世界の理想のために「前衛」として立ち向かう。そう思っていたに違いない。
日本の芸術分野においても、前衛が称されたことは数多くあった。しかし西洋のような「理想と現実との戦争」において前衛が意識されたことは数少ない。それは、有り体に言えば、「前衛」という考え方自体が西洋からの輸入品であったことが大きい。
日本は近代以後、様々な西洋的価値観を時あるごとに受け入れるようになっている。小説分野で言えば「自然主義文学」がそうであろうし、詩歌でも「アヴァンギャルド(前衛)」ということが流行ってきた。だが、ここに「流行ってきた」と私が記したように、それは興味本位で西洋の方策に色目を使ってみたに過ぎない。その証拠に、日本の自然主義文学および私小説は、西洋における文学への自然科学の影響を全く捨てている。さらには作家自身の生活の垂れ流しにさえ堕してしまった面もある。詩歌におけるアヴァンギャルド運動も、少数を除いて「理想と現実との戦争」どころか現実のみにべったりの体である作家・作品を生んでしまった。
この国においてはおそらく「前衛」という語のもつ前のめりの感覚が、「西洋においてなぜ『前衛』と称されねばならなかったのか」という吟味を忘れさせるのであろう。そして私たちは西洋人ではない。少なくとも日本において前衛などあり得るのか、そこから思考が必要になる。歴史的に見れば、芸術分野において西洋的価値観が全的に生かされた例は未だかつてない。なぜそのような日本人である私が西洋的価値観に関わるのか、その自問が常につきまとうのは間違いない。
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