短編「親密さ」(レイモンド・カーヴァー著)
今手元にないので記憶を頼りにする他ないのだが、小説家・レイモンド・カーヴァーの後期短編に「親密さ」という題の作品がある。
主人公は作家の男である。彼が、昔共に暮らしていたが、離婚してしまった元の奥さんのところを訪ねる場面からこの話は始まる。男は今では再婚し、気鋭の小説家としても名をあげていた。そんな彼が、近くに寄ったついでにふらりと元奥さんのもとを訪ねるのである。
そんな男を彼女は家に上げる。歓待することもなく、拒絶するでもなく、二人は向かい合う。しかし、彼女は「小説家としての男」そして「『昔の悲惨な日常』をダシにして書く彼」を轟々と責めたてる。
元妻として、小説であろうと何であろうと、昔のおぞましい部分を抉る小説家としての彼は忌々しいものだった。昔の良かったことは思い出すことはできないの、と彼女はなじる。世間的に小説家として認められている男は、何も言い返せずにひざまづくことになる。
彼女は、男を許すと言うが、今の彼、小説、そんなものは思い出したくもない、と言い捨てる。昔は親密であった彼らが、日常での破滅そして(ここが重要なところだが)男が日常生活を材に小説を書いたことによって、相入れなくなってしまった現実が厳しく胸に迫る作品である。
さて、この短編は作家の村上春樹が日本語に訳している。そして(私の記憶では)『レイモンド・カーヴァー全集』に入れられた際と、「村上春樹翻訳ライブラリー」の中に収められた改訂版とで、この作品への解説文が変更を加えられていた。
村上は『全集』の中では、「この作品は嫌いである」とはっきりと言っている。カーヴァーという作家は(現実に題材をとりながら)小説と現実の境界ははっきりと峻別する作家であった、と村上は言う。しかし、「親密さ」では、「その境界があまりにも混濁してしまっている」というのだ。あまりにカーヴァーの現実に作品が肉迫しすぎており、その一線を越えたカーヴァーの姿勢が受け入れられなかったのだろう。
ただ、「翻訳ライブラリー」では「この作品を読むのは個人的には辛い」という文言に変えられている。そこには作家としての矜持を捨て去って書かざるを得なかったカーヴァーへの村上の苦しさがあるように思う。
村上春樹を批判するわけではないが、そもそも小説を書くなどということは非礼極まりないことなのかもしれない。現実を精一杯生きている者たちに比べれば、物書きなどはただの蛆虫かもしれない、「親密さ」を思い出すとそんな思いにかられることがある。今の世の中は創作活動への大衆の宣伝が多いし、その活動を生活基盤にしようと躍起になる風潮などもある。そのような人々の姿を見て、私はすこぶる健康的だと感心する。しかし、カーヴァーのこの短編を読んでしまった私としては、人間の生き方について、そして人との関わり合いについて、「健康的」では終わらない抜き差しならない現実があるのだと思わずにはいられない。
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