世間の風潮に

 私には世間の風潮というものが分からない。もちろんテレビに代表される大衆的メディアをほとんど見ないということもあるが、それでも社会人として「今の世の中でこうした流れが主流となっているのだな」という雰囲気は漠然と感じることがある。しかし、果たしてそういった風潮がどこから来ているのか、全く判然としない。私の身の回りの人間関係には、世間の風潮からの態度を読み取れないからだ。

 今私が思う「世間の風潮」のイメージを語るべきだろう。最近では、東京五輪でのバッシングに代表されるような「正義や悪への思考を省いて、批判のみに終始する雰囲気」とでも言えようか。さらに言えば、その批判の基盤となっているのは観念的なイズムであるように思われる。

 一言で言えば、実感を感じられないということになろう。批判者自身の実感は何なのか、そして本当にそう思って批判しているのかどうかすら読み取れない。さらには「社会を良くしたい」という目的意識すらなく、ただ批判するために観念的な主義主張にもたれかかっているきらいさえある。

 しかしながら、前述したように私の身の回りには観念に踊らされている者はいない。みな生活と理想の片をつけるのに精一杯で、イズムに酔う暇などはないのである。毎日の衣食住を味わい、その上で目指すものを目指す。どこに観念が入り込む余地があろうか。

 では、世間の風潮はどこから来るのか。私には全く釈然としない。メディアが宣伝しているだけなのだろうか、私の周りのみ例外でその他大勢は観念的に考えている人々しかいないのか。 

 おそらくはこの日本の身分が高い人々に生活感がなさすぎるためだろうが、以上短絡的に捉えるのも益のない話である。どのような世の中にも社会的階層はあったし、人と人の間で力関係は間違いなく出てくるならば、今後、「平等社会」が実現したとしても「パワーバランス」は消えないのだ。

 今の世の中では、生活を持つ人たちは(メディアなどから)観念の宣伝を強いられる立場にある。私が言えることは、その宣伝に対して毅然とした態度をとるしかないのではないか、ということしかない。そしてその声に実感がこもっていなければ空の言葉だとする気概を持つ他にない。観念的な批判は決して人を動かさない。





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