全てを「声」として受け入れる

 学生時代に読んだ吉本隆明・糸井重里の対談本、『悪人正機』(新潮文庫)に、「声」についてこのような話がされている。

 それは国文学者、折口信夫の源氏物語読解にまつわるものであった。

 源氏物語に、光源氏が夜の庭にたたずむシーンがある。そこで源氏は月の光をうけたり、木々が風にさざめくのを聴いたりして、そぞろに涙を流してしまう。この場面と、「なぜ自然と涙を流すのか」という理由について、現代人はいまいち実感することが難しい、と吉本はいう。確かに夜風に吹かれ、月の光を浴びるのみで泣く、という行為は今の人たちに見られるとはピンとこない。

 だが、折口信夫はこのシーンなどはすごく良く分かるのだという。何故なら古代人(および折口)にとっては、夜の木々の葉のこすれも、月の光も、風の音も、全てが「声」として感受されていたからだ、と吉本は説明する。人と物、他の生物を仕分ける今の時代の私たちには考えもよらないが、昔の日本人にとってこの世の万物は「声」を発するものであった。そしてその声を感受しながら、古代人は感情を震わせ、あるいはこちらからも歌をうたったりしていたのだ。

 令和時代の私は、「声」を受け入れる身として生きているだろうか。確かに自分自身にまつわる全ての物事を感受することは難しい。世界のあらゆる些事・雑事に簡単にアクセスすることができる今の世の中では尚更だ。自ら気の狂いに近づくことにもなりかねない。しかしながら、この世に生をうけた身として、自然の素直な声を感受することほど豊かなものはないだろう。木々のさざめきや月の光を感受することは殊更難しいことではない。自然は特にそうだが、物事の「声」をきくのは、気持ちのよいことであるのは間違いないのだから。

0コメント

  • 1000 / 1000