『若き芸術家たちへ ねがいは「普通」』をよむ

 彫刻家・佐藤忠良、画家・安野光雅両氏の対談による本である。もう二人ともにこの世にはいない。だが、世の中の流れは次から次へ流れてゆく。今「願いは『普通』」と胸をはって言える者がいるだろうか。

 佐藤忠良は一貫して「いつも普通に暮らしている市井の人」を形づくり、「そんな存在を通し、人間の厳しさや優しさを彫刻で表現したい」と仕事を遺してきた人物である。批評家などから「キタナヅクリ」と言われたこともあったが、その朴訥としつつ確かな重みのある作風を変えることはなかった。

 安野の方はそんな佐藤の姿勢を受け、この対談では自身が自動車事故にあった時のことを語る。事故にあった安野を最前列で介抱し、言葉をかけてくれたのは、ねじり鉢巻きを巻いたような「キタナヅクリ」の人たちだった。安野の言葉を使えば「エレガントな人たち」は、後ろの方で遠巻きに見ているだけだったという。

 ここに彼は、人間の本質を見たような気がした、と言うが、私にとっては令和時代になった今でもそれは変わっていないと思う。ただ一つだけ言えることは、「エレガントな人たち」の「遠巻き」でしかない言説が流布されやすくなった所は今の時代の暗澹たる部分に違いない。そしてさらには、絵に彫刻に、もっと言えば自然に向き合う姿勢が失われ、身のない言葉だけが宙に浮いている。

 この本には体をもって身に染みた言葉しか出てこない。平等主義や女性差別への目が厳しい今の時代には危うい談話もあるが、それが何だというのだろう。自然を、人をしかと捉えることで両氏は作品を生み出してきた。そこに主義主張の謂れが入りこむ余地はない。

 もちろん時代や環境が違うため、二人と私たちの生きる今の時代を簡単に比べることはできないが、今の自分・世の中に辟易している私は懐かしさを覚えた。今後、今の社会・世界は目まぐるしく変わっていくだろうが、「気品のないもの、隣人への配慮のないものから本物の芸術は生まれてこない。これは芸術に限ったことではありませんが。」との佐藤の言葉は、地軸のように私たちに根ざしていくであろう。

 最後に、この本にはユーモアが溢れていることを記しておきたい。怠惰から来る自意識も不安も強ばりも皆無で、あるのは「ただただ親しく話せる相手がいる」という幸福感だけであった。私は佐藤の彫刻や安野の絵画に威厳を感じていて、この本もいかめしいかと思っていたから、そのユーモア感覚には驚いてしまった。「普通の人」として生きることの幸福感を味わいたければこのように相手と話すのだ、というお手本のような対談である。

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