世間に組み込まれて

 人間は太古の初めから社会的な存在であっただろうか。そんなはずはない。どこかの時点で「社会を構成した方がよい」との判断から作り出したものであろう。あらゆるパワーバランスや上下関係、その他諸々の影響下で、個々に遣り取りの全てを背負わせるよりも「社会」に負えるものは負わせた方が簡便との判断からと思われる。人間は初めは「動物的な個々」であり、その上で「人間的な存在」踏まえ「社会的構成員」という肩書きをもったのだろう。

 さて、この国日本には「社会」という方式のみならず、「世間」という枠組みさえある。何か皆の縦隊を外れることをすると世間的な外聞が良くなくなる、というようなことだ。派手な芸能人やタレントを想像してみると分かりやすいかもしれない。しかし世間とはそう遠いものではなく、私たちの身近な家庭環境や地域共同体を律している。

 もちろんそれは悪いことではない。他の国のように街であからさまなポイ捨てや強盗がなされないのは美点ではあろう。この国は世間という枠組みによって、安全や一通りの安心感などを手に入れた。

 しかしながら家庭や地域での関わりがひどく失われた今現在、世間的圧力はありとあらゆるところまで拡張させられている。その一理由としてSNSなどに代表されるインターネット媒体は大きいと思うが、個々人が「包括的な全世間」とさえ呼べるようなものに晒されることが多くなってきた。ネットでの誹謗中傷を受けての自殺などはその例としてある。

 世間という存在は、かつてないほど疎んじられるものとなった。その反動として「社会的活動」にシフトする人々も数多見受けられるようになった。世間から煮え湯を飲まされてきた人たちが、イズムやそれに基づく運動へと靡いていく。どう見たとしても健全な反応ではない。だが世間とともに家庭や地域などの関係性を失った人たちは、このように動く他ないのは分かる。そうでなければ自身を支えるものは何もなくなってしまうからだ。

 世間を煙たく思いながら、それでも社会に対して夢見ることも反感を持ち続けることも出来ない者はどうすればよいのか。この問いに対して私は答えを出せるような人生を送れていない。ただ一つだけ言えることは、「人にとって『人間的』ということはどういうことか」と絶えず自問することが鍵になるだろう。前述したように人は動物的存在から社会や世間を作り出したわけではない。そして世間を罰するために社会へコミットするだけでは人は人を支えられない。己を人たらしめている物事を一つ一つ確かめていく、それだけが私に出来ることだろうと思う。





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