誰が詩歌を読むのか
私はこれまで現代詩・短歌・俳句・ラップなど、数多くの詩型の創作をしてきた。その中で様々なそのジャンルの人たちと交流してきたが、今ではそうした人間関係は必須のもの以外切ることとなった。今回はそのことについて纏めてみようと思う。
詩歌というジャンルは、言葉を使う分野の中でも親しむ人間が限られるといえよう。散文のように読めば意味が伝わるわけではない。受け手、読み手側でそれらの詩歌の言葉を噛み砕いて消化しなければならないのだ。その影響で読解が煩雑となる。ましてや読者一人一人の読み方が違っていることもあり得る。そのような複雑さは、読者を選ぶことに繋がる。
読者を選ぶ詩歌というジャンルが悪いわけはない。だが、その読み手が全員創作者を兼ねていたとしたらどうだろうか。純粋な読者がいない世界である。必然的に創作者たちの傾向・好みに読解が引っ張られていくことになる。これは可能性論であるから全てがそうであるわけではないが、内輪での認め合いや、批評的な視座の無視なども引き起こされる事になろう。
そうなれば、詩歌は誰に読まれるのか。ますます内輪へとこもる事になる。
今現在の社会ではそれでは利益へとつながらないため、内輪の価値観を周りへと引き伸ばしていくこととなる。だが、そのような価値観を誰が詩歌と呼ぶだろうか。詩・歌についての定義は難しいが、それらは世界に軽く受容されるものではなかったはずだ。
もちろん人間関係から詩が立ち上がることはある。さらには、一文字も記さなくとも一言も歌わなくとも、「この人は詩人だ」と嘆息するしかない人物も存在する。だが、少なくとも私の経験では詩歌のジャンルには(特に書き言葉によるジャンルでは)そうした場・人物は極端に限られていた。その理由を一言で言い表すことは難しいが、今の時代には詩歌を正面から受け止められる人間自体が限られているからかもしれない。
誰しもが単純な承認を求めている。また誰しもがシンプルに利潤を求めている。それは私とて変わらないことだ。だが、詩歌は承認や利潤の道具などではない。詩歌の文句はただの結果でしかない。本当の詩歌は、私という人間と世界の向かい合いなのではないだろうか。その向かい合いには、内輪など入ってくる余地はない。ましてやその結果でしかない詩歌の文句自体にすら、価値など求めてはいけないのかもしれない。
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