鑑賞などせずに
中学・高校の頃に、よく「芸術鑑賞」なるものに連れていかれることがある。思春期の多感な時期に「芸術」に触れるのはよいことだとされているからだろう。もちろんそれに異論はない。しかし、果たして芸術とは単に「鑑賞」するものなのだろうか。
学校などの芸術鑑賞には、もれなく「作品の一通りの見方の解説」がついてくる。歌舞伎はこのように鑑賞する、打って変わって能楽はこのように鑑賞する、というように。今現在の教育制度からそれは致し方ないのかもしれない。だが現実的に有象無象の学生たちが、解説通りにものを見て、優等生的に感銘を受けるものではない。さらに言えば、その「鑑賞解説」によって人は感動すると信じている者がいるとしたら、かなり人間を舐めているだろう。そういった者は一番芸術から程遠いのである。
誤解および現実を無視して言うならば、芸術など鑑賞するものですらない。裸一貫で作品を目の当たりにし心を動かされたならば御の字、不必要で訳のわからないものだとされたらそれも御の字である。ある芸術から子供たち全員が感銘を受けることはない。もちろん心震わされるに越したことはないが、その感動がのちのち一人一人の血肉にならないのだとしたら意味がない。ある作品に触れたことで現実社会から遊離してしまうかもしれない、そのリスクを負って惚れ込むのが本当の見者なのである。
おそらくは今の教育は以上のことなどは考えていないだろう。近代からの教育は、つまりは社会の構成員(それには軍事的な事柄をも含まれる)のためのものだからだ。だが、裸一貫で何かとぶつかる経験すらない者は、社会をも「鑑賞」する対象にしてしまうのではないか。「鑑賞」という言葉および営為を許さない場所が、この世界にはある。後世に伝えるべきは、その厳しさと充実感だろう。そして芸術という場には、そのために身を切っている人たちが今までも数多くいたし、今でもいるのである。
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