ださいままでいるという我が儘
人は生まれてくる以上、各々にとっての最高の生き方をしたいのだと思う。自分の分際にぴたりと合った生き方を心の底では望んでいよう。自足に足るという実感を持つに至った者は幸せであろうし、周りも心底幸福を感じる。もちろん少しばかりの嫉妬心も混じる。時代状況・環境・性格などにより、多くの人たちが幸せに生きられるわけではないからだ。それでも自足して幸せに生きられている者には、幸せな雰囲気は醸し出されるし、全き幸福感には嫉妬などつけ入る隙はないであろう。
自足感は死ぬまで持続するとは限らない。時間の流れに沿った努力が必要である。この時間感覚に翻弄されるところに人の人生の綾があり、ドラマが生まれるのだろうが、この文章で記したいのは「幸福論」ではない。私個人の努力のしどころを何処に定めるか、を考えたい。
理想のために生きるという生き方は間違いなく立派である。そこに疑問の余地はない。現実べったりで曳かれるがままの生き方を選ぶ者もいるが、それは目も当てられないだろう。もちろん時間の流れ、時代時代によって、個々人の理想的な状況と現実が合致することで、現実そのものに曳かれる生き方が理想的に見えることもある。ただ、それはあくまで運の問題で、私個人としては考えるに当たらない。
今の私には、理想と現実に身を捩られる感覚がある。それでも理想に向かって脇目ふらず生きることもできない。おそらくこの捩りの中で、立っているだけのことに誇りを感じている節もある。いわゆる夢を持った上での人生における立身出世を信じられないのだろう。
理想に邁進する者から見ればただの堕落に見えるであろうし、現実の中で坦々とタスクをこなす人の列では縦隊を乱す者でしかない。どっちつかずの「ださい人間」であることは重々承知だ。
誇り・理想・自己肯定感を持たずに世を渡るのは、今の時代は特に困難である。ただそれらを求める縦隊にも入ることが出来ない私は、ださいままでいる我が儘くらいは通せるような生き方を見つける他ないのかもしれない。折節でだささに耐えるに耐えられなくなることも承知である。ただ、これは私個人の問題であるから、抱え込むだけだろう。
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