妄想を位置付ける
これは私のみに当てはまる事なのかもしれないが、周りの人々・風景・風物に対して関係妄想が広がることがある。例えば目前に晩ごはんを前にしても、そのコロッケが「コロッケ」として捉えられず、ネズミか何かの生き物とされてしまうというように。それはかなり極端である。がしかし、その妄想をいちいち自己認識し受け流すのも骨が折れるのだ。
こうした認知の歪みに対して、今の時代には様々な考え方が出揃っている。禅やマインドフルネス、認知療法などなど、ツールはいかようにも選ぶことができる。
私は引かれる心もありつつ、自身の妄念に付き合っている。日常生活の集中力に支障をきたすこともなくはない。それでも、気の狂いの一歩手前で立ち止まって戻ってくるのは(自分の中では)手慣れたようになってきている。
そしてその妄想をひとつひとつ位置付けていく。ああ、過去にこんなことが合ったからかな、意外とあのことが辛かったのかな、などと思い、懐古するのだ。骨折りつつそののち前を向く。悲しさとありがたさが混じったような心もちである。
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