俳諧と政治
「俳諧と政治」と題をつけてみたが、この二つのことについて私は未だあまりよく分かっていない。
江戸時代から連句を主なジャンルとして発展した俳諧は、近代以後にできた連句を甘くみる風潮によってアクセスが困難である。近代の壁があり、「俳諧とは何か」をしっかり言うのは難しい。私自身の勉強不足もあるが、それ以上に古代歌謡〜和歌〜連歌〜連句を結ぶ流れが分からない者は「俳諧」をしっかり押さえられないのではないか。また俳諧という語は、ジャンルとしてだけでなく一種の「空気感」としての意味もある言葉である。それは滑稽でおかしみのある感覚を「俳諧味」と表すことからも類推できるだろう。つまりは、日本における詩性を多分に包んでいる存在が「俳諧」なのだ。
「政治」という言葉も難しい。この国では古くは「まつりごと」という語が政務を表す言葉であったが、それは近代以後の政治活動とはかけ離れているのではないか。あるいは、この国日本では空気感による支配のため、他国においては成立している議会政治などは今現在においても成り立っていない可能性が高い。人が複数人集まれば、その場には必ずパワーバランスが生まれる。それを仮に「政治」と呼んだとしても、日本ではその政治性すら空気に任せているところが大いにあろう。
俳諧と政治。日本では未だ詳らかにされていない両者は、実は複雑に絡み合っているのではないか。これが私の仮説である。
和歌への文脈を辿るとするとそれは天皇制につながることは必定だし、商人や下層階級にも親しまれた俳諧の担い手も為政者の「隠密」として諸国を回っていたという説も色々出ている。以上のような仮説は、俳諧の純粋性を重んじる者には首肯されないかもしれない(あるいは詩の政治性をとやかく言わない今現在の日本詩人・歌人・俳人には尚更だ)。ただ、「人が複数人集まれば」パワーバランスとしての政治が出来するとすれば、詩人歌人俳人の集まりは「政治」について考えざるを得ないだろう。
もう一つ仮説を言うとすれば、俳諧と政治は絡み付いているからこそ、その場で苦しみながら詠む句そのもの自体は屹立するのではないか。人間として(句を詠むという自由人的な身分でありながらも)政治から自由になることはあり得ない、人との繋がりによる苦しみは生きる限り続くからだ。それでも句を詠むという営為がやまないのは、政治に濁されない混じりっ気のない俳諧を人間は味わいたいからだろう。逆に言えば、政治による濁りがあるからこそ、よき俳諧は味わい深くなるのではないだろうか。
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