無名について

 「無名である」ということについて考えてみようと思う。おそらくこの事は、「今現在全くの無名な存在である」私だから出来ることだ。また且つ、「無名であることも重なって、世間に顧みられないことに苛立っている」私だからこそ出来ることでもある。

 無名であることの何が問題か。おそらくは名を馳せるということに全く興味がない人達もいる。それは立派な人間かそうでないかは関係がない。「無名」ということが問題となるのは、「世に問いたい何ものかを抱えている」人間であるのと共に、「その何ものかについて相当な自負がある」者に限られる。そしてさらに、「最終的には『その何ものか』が世に知れ渡ってほしい」と切に願う者に限定される。

 おそらくは普通の世間の人達は、そのような(ある種傲慢である)自負心は持たないであろう。世間とあい見えて付き合うという営為に、自負心は必要がない。あるいは持っていたとしても、世間との「折り合い方」を間違えるわけにはいかない。私は精神的なこと実際的なことは不勉強だが、その折り合い方によって手ひどく傷を負った人達は、「名を馳せる」どころではなく「世間からは追放される」場合さえある。

 私が苛立ちを覚えようが、「世間からの追放」に恐怖を覚えようが、それは自分自身の問題であろう。ただ、そのような精神的な辛さに加え、無名ということに付き纏われている「実利的・金銭的」な欠如という問題がある。また人は一人で生きるわけにはいかない。周りの人間関係による孤立感は、加齢によって強さを増していく。

 以上記したことは、ただ内面の劇でしかない。己一人でしのぐ他ない問題である。そして私は有名になったことすらないため、「無名の辛さ」が有名になることでしのげるようになるのかすら分からない。身の程を知るべきなのだろう。ただ思うのは、その身の程の受け入れは「世間と個人性の妥協」では決してない。

 無名について考えるのは疲れる。おそらくは身の程を生きるということはそのような厳然たる事実なのだろう。

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