芥川龍之介に言いたいことは

 芥川龍之介はついに太平洋戦争も戦後社会も知らずに死んでいった。彼は「ぼんやりとした不安」という言葉を残し亡くなった。今更何を寝ぼけたことを言っているのか、という声が聞こえて来そうだが、私には芥川の気分をすくいとることは存外大事なことのように思われる。

 芥川研究および芥川に対する批評はこれまでに出尽くしている。小説作品に限らず、他の文芸活動、そして芥川の実際的なプロフィールに関しても調べ尽くされている。もうそれに付け加えることは何もない。おそらくは彼は、東京のインテリゲンチャの家庭生れでない自分に対し、相当悩んだのだろう。実際的・現実的な問題を処するさい、作家・小説家としての自分がどれほどの価値があるのか。どんなに気鋭の作家と言われようと、将来の大文豪と称されようと、実際には何も変わらない。そう思い込んでしまった可能性は高い。

 今私がここに記しているのは、(色々読んだ挙句の)想像に過ぎない。もっと深遠な文学的課題に化したり、さらには近代日本の課題や政治的問題も絡めることもできるかもしれない。それでも、そんな「形而上学的課題」すら、晩年を生きていた芥川自身は価値を認めなかったということも考えられる。

 人は「ぼんやりとした不安」だけで自殺できるのか。無論、実際的にはありうる、ということを芥川は示してしまった。これは普通思われているよりも数段恐ろしいことである。「形而上的なこと」(精神的な問題)に足を踏み入れどんどん深入りすると、挙げ句の果てに命を失うかもしれないのだ。芥川という文豪の理性を持ってすら、命を絶つことになった。

 ただ私が言いたいのは「実際的なことはやはり大事である」という一事だ。芥川はそれが分からなかったのではないか。もしくは「実際的な自分」を許せなかったのではないか。誰が何と言おうと、「今実際に自分が生きていることは揺らがない」と思えるならばそれで良い。「形而上」の物事というのは、そうした地盤がなければ脆弱そのものなのかもしれない。

 ここからは私見だが、太平洋戦争および戦後社会の歴史は、その「地盤」を切り崩していく歴史でもあった。他国の介入、自身の自立心の喪失、そして「地盤」なるものに対する感受性そのものの喪失。このいわば「形而上的」そのものな語句を一つ一つ解説するには私は力不足である。そんな私自身は、「実際的な物事」「実際的な生活」を黙々と確かめていくしか方途がないであろう。

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