憎悪感を処す
生きている以上、人間はやり切れない出来事に遭う。不幸、病、別れ、死別、自分にも人にもどうしようのない類の出来事がある。そういう場合には、誰しもが身をかがめながら時が過ぎるのを待つしかない。誰のせいでもないからだ。
しかし、誰のせいでもなくとも、原因を探してしまうのは人の常だ。何かのせいにすることはある。そして様々な要因が重なって、憎悪の感情がふくらんでいってしまう。その憎悪感がある特定の対象に向かうことさえある。哀れなことだが、憎悪で我を忘れてしまう者も多い。
そうした人間たち自身にも勿論責任はある。自分で自分を制御できないというのは良くない。ある角度から見ればそれは「大人」になれていない、とも取れる。社会生活を営むにあたり、致し方ない出来事をやり過ごす姿勢は必須だ。
憎悪感は致し方ないのだろうか。憎悪に振り回されている方がおかしいのだろうか。おそらくはこの社会には、憎しみを糧とする存在も立派にいるし、その憎しみを増幅する存在までもれなく付いている。
致し方ないのだろう。私はそう結論付けたいと思う。この世の中はそのようにできている。どんなに振り回されようと、どんなに悪辣な扱いを受けようと、それで振り回されて人間的に終る者がいるとしたら、それは振り回されるその人間が悪い。
だが、悪辣さに負けるわけにはいかない。私は、否、どんな者でも人間でいるのならば、悪辣さに負けるわけにはいかない。勝負に例えなくても、言わば、振り回されるわけにはいかないということだ。
憎悪感を処する吾が必要だと思う。その手立ては私にはまだ分からない。一人一人孤独に考える他はない。それでも人間は一人きりになることはない。人として世間に生きるならば、誰しもがその不甲斐なさを抱えている一事は皆分かっている。
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