将来の芭蕉論へ
将来、松尾芭蕉論を書く、と私は心得ている。それが文章の形をとり残るかどうかは定かではない。自分自身、文字を記すということに全く興味を失い、ただの市井の人間になる可能性はある。しかしながら、その場合でも「詩歌およびその人間関係」に惚れ込んでしまった己を処理しなくては、と思う。そうでなければおそらく私は、詩歌に曳きずられたまま市井の一人としての自立心を失ってしまうだろう。
芭蕉の業績は、世間的には「五・七・五」からなる俳句(発句)から成り立っている。しかし、俳句(近代以前に遡れば「俳諧」)というジャンルは、和歌や漢詩からの歴史性を無視するのならば、大部分に意味はない。音数だけ揃えれば「作品」になってしまうのだから、今の時代にはよく見られるようにただの言葉遊びに堕す可能性は高い。
では歴史性は何によって担保されるか。語り伝え、それを受け取る者がいるという場が必須である。そして、人間関係が必要なのは言うまでもない。現に芭蕉という人は、貴賤なく人と付き合った者であった。
芭蕉の弟子は次のようなことを言っている。「師・芭蕉の仕事の真髄は発句(今でいう俳句)ではなく、連句および連句の場での臨機応変なふるまいにある」と。芭蕉を語るには、このふるまいについての確とした思考が必要だ。また、自分自身もどのような場所にいようとそのように存在できなければ、芭蕉論を書く資格はない。
勉強と思考。そしてその吟味を人とのふるまいに生かす者になることが、将来の芭蕉論には欠かせない。
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