着飾らないドラマのミカタ
今クールのドラマにハマっている。特に毎週心待ちにしているのが、「着飾る恋には理由があって」と「あのときキスしておけば」の二本である。
見たことのない人もいると思うので、簡単に説明をしておきたい。
「着飾る〜」の方は、川口春奈演じる女子(勤め先のおしゃれ雑貨会社の広報部で、SNS宣伝を一手に任されている)が、腕ききだが店を取り仕切れなかった過去を持つ料理人(生活の面ではミニマリスト)と出会い、お互いを恋しあいながら人間として成長していく物語である。
「あのキス」の方は、少し説明が込み入ってくる。松坂桃李演じる一人の若者が、尊敬する女性漫画家(麻木久美子)と出会う。そして惹かれ合うのだが、ある時、その漫画家は飛行機事故で亡くなってしまう。ただ彼女の魂は死んだわけではなかった。その魂はあるおじさんの体(井浦新)に入ってしまったのだ。主人公の若者はそのことに気づくところから物語が進んでいくラブコメディである。
私は物語を編んでいくという能力が欠けているので、「脚本家ってすごいなあ」と思いながら観ている。おそらくは物事を俯瞰する能力が彼ら彼女らは長けているのだろうか。羨ましいことである。
ただ、私は細かかつ、全く関係ないことが気になるたちなので、この二本のドラマについて2点ほど記してみようと思う。
「着飾る〜」のドラマは一話一時間だが、星野源の主題歌が流れる最後の十分間に、本編と絶妙に絡み合うサイドストーリーが展開される。これはおそらく私が書くよりも実地に見てもらう方が早いが、その脚本の流れに触れ私は「これは未だドラマでなかった構成なのではないか」と目を見張った。
これは和歌でいうところの、「長歌」と「反歌」の関係性を脚本に持ち込んでいる、と私は解釈した。五音と七音の組み合わせで長く続けられる歌(長歌)に対して、応対する歌として通常の「五・七・五・七・七」の和歌を「反歌」として置く。これは歌が芸術の一形式というだけでなく、立派な意思疎通の手立てであった古来からの日本の文化である。
テレビドラマは何十年も前から、人々の話題に登りやすいジャンルだ。しかし、今は動画ストリーミングサービスが充実していて、テレビドラマも佳境に立たされている。その中で、このような(意思疎通ツールとして日本古来からの構成に似通う)脚本が出てきた、ということは、おそらくテレビドラマの人達が必死で何かを伝えようと骨を折っている証であろう。
「あのキス」についても記しておきたい。このドラマはBLの感を含んだラブコメであるから受け流されやすいだろうが、根本のテーマは「魂」の問題だ。
人は見た目に左右される生き物だ。それでもそれぞれの魂に惹かれることは多々ある。それでは「魂は同じでも、見た目は(性別含め)全く変わってしまった相手を愛せるのか」とこのドラマは哲学している。
二十世紀はこの問題を微妙に避けてきた、と私は思う。「同性愛者」という括り、「障害者」という括り、一つ一つ挙げればキリがないが、そうした分別によって本質的な「魂」の問題を避けてきたのだ。二十一世紀は「LGBTQ問題」「マイノリティー問題」含め、そのツケを支払われているのではないか。
またそうした問題は、真面目になろうと思えば(不必要なほどに)大真面目になれる事柄である。おそらくこれらの問題を取り上げる社会運動家が幸せそうでないのは、彼らの思考の仕方のゆえなのでは、とさえ感じられる。
「魂」の問題を扱っている「あのキス」が素晴らしいのは、大笑いできることであろう。また「いちずな松坂桃李かわいい……」というだけで、「魂」のことを考えられうるからだ。物語というものは、ストーリーというものは扱い次第で素晴らしくなるものなのだ。私は毎週見るたびに、ウキウキワクワクしてしまう。
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