納豆を食う手立て
朝、起床する。朝の飯を食おうと思う。はて、どうするか。
私はいかんせん不精の身であるから、一日の頭からテキパキと動くことは難しい。起床してすぐに目が覚めて動ける人達もいるだろうが、私はそれが出来ない。しかしながら朝起きてからの身を受け入れることはしなければならない。
まず、納豆を一パック食おう、そう思いきめる。米を炊いたり、味噌汁を作ったりできればそれは理想だ。ただ理想を毎日続けていれば体がもたない。プラスチックの容器を開け、箸でかき混ぜるくらいは出来るだろう。
私はそんな風に朝を迎える。
最近はそれに付け加え、「納豆を食う」動作にも色々と「手立て」を意識化すると、気持ちが落ち着くことに気付いた。
人間の朝には、様々な出来事がまとわりついている。これから仕事に立ち向かわなくてはいけない憂鬱さ、眠気をしっかり払えないうざったさ、まず己の身一つだけでもそれだけの重みがある。
納豆を食う。とりあえずその営みを、朝乗り越える手立てに仕分けしてみよう。眠気、憂鬱に弱い私は、そう考えた。
まず綺麗に蓋を分離させる。そして納豆の糸を操りながら、プラスチックのシートを外した蓋へと移動させる。中に入っていた「たれ」と「からし」の封を切り、内容量をできうる限り使い切る。最後箸を使い、ねばねばが光るまで混ぜ合わす。
言葉にすると何でもないことだが、「手立て」が上手くできた時の達成感は、物憂げな気分を払うくらいには大きなものだ。それは至極個人的な出来事に過ぎない。しかし、人間と人間の出会いが朝から始まるとするなら、個人的なことを馬鹿にはできない。自分で自分を取り仕切る「手立て」は、存外重要なのだと思う。
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