『詩人・菅原道真 うつしの美学』(岩波文庫)評

 今日、菅原道真というと、天神崇拝の影響によって「学問の神様」とのイメージが強い。受験期シーズンには、湯島天神など全国で天満宮(天神さま、道真を祀る)への参拝風景を目にすることができる。しかしそのような一般的な道真のイメージ像に対して、本書は古代における「モダニズム詩人」としての姿を描き出している。菅原道真には公的な学者・官吏の面だけでなく、すぐれた「詩人」としての顔があった。その顔をもつ一人の日本人として、彼は『漢』文脈と『和』文脈とを文字どおり命を賭して統合させようとしたのである。

 この「漢と和の統合」の例として著者が挙げるものの一つが『新撰万葉集』である。『新撰万葉集』は別名『菅家万葉』ともよばれ、収められた和歌の選は道真によると伝えられている。つまり菅原道真主導で編さんされたわけだが、他の和歌集とは大きく異なる特色があった。

 道真が生きていた当時の平安期では、和歌は仮名文字(ひらがな、カタカナ)で書かれていた。また、漢詩を日本語のやまとことばに換骨奪胎して一首の和歌に仕立てることはあったが、和歌から漢詩を着想することはなかった。しかし『新撰万葉集』では、全ての和歌が漢字で表記されている。またその和歌をもととした漢詩と並記される。つまり、漢詩から着想を得て歌を詠むことしかしてこなかったものを、道真は逆転させる試みをしたことになる。

 この試みの中から筆者は古来からの日本の美学を見出し、それを「うつしの美学」とした。「うつしの美学」の根本は、あるものをあるものへ「移す」ことである。日本におけるこの「移し」は、物理的な移動のみでなく心理的な移し、そして形而上学的な意味での移しにさえ敷衍されるのだ。本書では、その証左として和歌や俳句、連句といった文学ばかりでなく、染物の染色、病の伝染、さらには漢字から日本人がつくり出した、ひらがなやカタカナの表記なども挙げられている。

 菅原道真は自身の詩人としての姿勢において、筆者のいう「うつしの美学」をはっきりと意識化していた。『新撰万葉集』の編さんのみでなく、『菅家文草』『菅家後集』にまとめられている漢詩はその「漢と和の統合」の白眉である。和歌に代表される日本の「うた」は、気分や情趣を直情的に歌うものだ。対して漢詩は客観的な叙述や描写が不可欠な「述志」の詩である。道真の漢詩において「述志」と「直情」は完全に両立していた、と筆者は語る。

 菅原道真は数えで五十七歳の時に太宰府へ配流された。そして「詩人」として次に引くような詩句を残し、そのままこの世を去った。


 哀哉放逐者

 蹉跎喪精靈

 (哀しきかな 放逐せらるる者

  蹉跎として精靈を喪へり)

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