「哲学書を読めない」

 まだ学生時代の頃、私の周りには堅い本を読んでいる人たちがたくさんいた。ドストエフスキー、福永武彦、バルザック……文学書だけに限らない。アントナン・アルトー、ベルクソン、ガストン・バシュラール、マルクス……あげていけばキリがないが、彼らは美学書や哲学書などにも手を出していた。

 私はその流れに追随したか。無論、追随した。また、そうした「趣味」の幅に関して、追いつき追いこせと焦っていた。「読書」に対して不純な動機を持っていたのである。近代について知識も教養も浅いのにも関わらず、二十世紀哲学書をパラパラとしていた。一番良くないパターンである。

 今は「哲学書、読めないなあ」と感じる。それよりも(哲学書であろうと何であろうと)きちんと何かに「向き合っている」人と語り合う方が面白い。結局読書という行為は、一冊一冊と向き合わなければどうにもならない。ましてや己一人だけ世界が広がったところで、意思疎通できるかどうかは己次第なのだ。

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