批評とエッセイ
「批評」という語がある。一般的には、何らかの世相や作品に対する一家言を説くことというように理解されている。ただ「批評」という言葉は、他の似たような語句と意味的に違いを持たせるのに苦労する言葉だ。
例えば「批評と評論ってどこがどう違うのだろう」と疑問を持つ瞬間はかなり多い。もっと踏み込んで考えると「批評と随想・随筆は何か違いがあるのだろうか」「エッセイと呼ばれる文章はそれらと違うのだろうか」と疑問は次から次へと湧き出てくる。
この問題には、この国の文明開化にともなう「外国語の翻訳」が大いに関係している。
実は今現在使われている日本語は、近代以後に翻案されて作り出されたものが数多くある。法律用語や科学用語はほとんどそうだ。また、日本国憲法で何度もくり返される「自由」「平等」「平和」といった語句でさえ、日本語の長い歴史からすると全くの新語である。
明治時代、日本は外国と交渉するにあたり、日本国だけで通用していた言葉だけでは太刀打ちができなかった。今でもよく言われるように、日本語は(外国から見ると)曖昧な場の雰囲気に裏打ちされるようにできている。厳密に厳密を重ねなければいけない状況、例えば外交や政治交渉の場では、西洋と比べて日本はきわめて不利であった。いわゆる意味を厳密に定めるための概念語が乏しかったのである。
その時代から長い時が過ぎた。令和の今の日本にはありとあらゆる言葉が溢れかえっている。新聞を眺めるたびに、テレビやラジオをだらだら流すたびに、それだけで新しい言葉・新しい言い回し・新奇なイントネーションに立ち会う。それはめくるめく体験である。しかし、語句や使用法がことごとく膨大になった弊害として、その場その時その自分に最適な言葉を吟味する営みが忘れ去られようとしている。
「批評」という語一つとっても例外ではないだろう。何か些末な芸能ニュースにコメントしただけでそれが「批評」と呼ばれたり「クリティカル(批評的)だ」と呼ばれたりもするようになった。確かにそう受け止められ得る場合もあるのかも知れない。だが、(「批評」という語そのものは近代以後の言葉だが)批評、という言葉のもつ歴史、もっと言えば批評家という人間たちがどのような歩みでどのような歴史を作ってきたか、についての眼差しが足りないように私は思う。
ひるがえって「エッセイ」とはもとフランス語の発音を直にカタカナにしたものである。フランスでは「エッセイ」の意味は「試論」という。未だ完成された論ではなく、構成・構築される前の論考の端緒、それが試論だ。昔からの日本語で言い換えるならば、それは例えば『枕草子』『徒然草』などから日本の作品としてある、「随筆」や「随想」に近い。
今の日本において、こうした言葉の原義がなおざりにされ多くのコミニュケーションがされているとしたら、それはかなり滑稽かつ物悲しいことだろう。多くの言語に取り囲まれながら、人は自身の情緒を整理することが出来ない。これほど孤独なことがあるだろうか。
とにかく何はともあれ(日本語で言うならば)余裕が必要であろう。遊び、というのか、間、と言うのか言いようは様々だが、ボキャブラリーが増えることで自身の心情が曖昧になることはあってはならない。真に吟味された日本語は決して曖昧さを許さない。私はそう思っている。
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