翻訳のむずかしさ
日本では、例えば学校の授業などで英文和訳の時間がある。英語で記された英文を日本語の文章に訳すという作業のことだ。
昔から私はわりかし英文和訳が好きだった。勿論自分で自前の文章を書いていると言う創作とは少し違う。ただ、どんなに下らないエッセイでも、私の日本語によって日本文になりかわっているのだと言う実感は嬉しかった。小さい頃から「ことば」に敏感だった、と言う性質もあるのかもしれない。しかしまとまった分量の小説や、まとまった内容の評論などを書くのは不得意だった。そんな劣等感を英文和訳という作業で慰めている部分もあったのだろう。
それでも今の私は「翻訳家」ではない。言うまでもなく日本語以外の言語が滅法弱いからだ。それでも最近では、「翻訳」と言う営みは、英文和訳のようなものだけではなく日本語の中のみでさえ行われているのでは、と思うようになった。
特にその感覚は様々な人と話している際によく感じる。例えば私がある漫画のことを友人に話してみたいとする。当然会話なのだから、直接その漫画を眼前にあらわすわけにはいかない。だから、私は分かりやすいように、話の筋やキャラクターデザインなどを噛みくだいて話すことになる。「話の筋は王道のジャンプコミックでさ」と言ったり、「デザインは今流行りの『鬼滅』に似ててね」と話したりもするだろう。
上記したような営為は間違いなく「翻訳」と呼べるのではないか。英語含めた外国語スキルとは全く関係なく、向かい合う人間がいるかぎりこの営みは続く。逆に言えば、言語のスキルの問題に全てを帰して「翻訳が難しい」「翻訳など面倒くさい」となっているのなら、それは一人一人のそれぞれの他者感覚が薄れているからではないか。
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