物思い

 東京中は梅雨入りということなのだろう。朝から日が差さず霧雨がぱらついているようだ。私はもれなく、室内で物思いにふけってしまう。

 考えている間は、集中して動くには支障をきたす。熟考と行動を同時並行ではうまく回らない人間のさがだが、とんと厄介なものである。

 「我思う、故に我あり」。近代のいしずえを築くことになるデカルトは、主著『方法序説』の内でそう気付いた。何か物を考える時、人は何においても疑ってかかることが出来得る。今目の前に落ちた水の粒はほんとうに雨なのか。二階からの漏水ではないか。あるいは全ては妄想で、私の目に何かが水の粒として見えているだけではないのか。

 いかにも馬鹿ばかしい疑いではあるけれど、結局のところ人間は物そのものを直に認知・認識するのは、(少なくとも疑いだけでは)困難である。物思いがえんえん止まらないのも、こういったある種の道理からかも知れない。

 だが、今ここで「疑っている自分」という存在だけは疑えない。デカルトはそう思案した。彼のこの考え方は、今現在の社会においても隅々まで染みている。世の中が物思いに留まることなく、新たな方へ新たな方へというように加速していくのもむべなるかな、といったところだ。

 私は、それでも物思いにふけり続けることも、行動を加速させ続けることもできないな、と感じる。その理由を言うのは難しい。ただ一つだけ言えることは、人間という存在は世に出た瞬間からそのようにバランスをとりながら生き永らえて来た、という歴史的な一事だろう。窓をのぞくと、まだ曇り空は続いている。昼寝するには遅すぎる午後だ。


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