俳句における他者性について

 周知の通り、俳句という文芸ジャンルは音数わずか十七音からなる。そしてその十七音という音数律は、五音(上五)・七音(中七)・五音(下五)と分かれている。また、季節の風物をあらわす語句、季語を入れることになっている。俳句という言葉自体は近代後のもので、今までの長い歴史の中で破調の句や季語がない句などもたくさん詠まれてきた。しかしながら定型と季語という大きなルールは守られているように思われる。

 定型と季語が現代においても残り続けているのは何故なのか。音数律の問題、あるいは季感(季節感)の問題と、分析的な言説はこれまでにも研究されてきた。ただ、どのような言説を読んでも、それらが俳句という存在ひいてはこの世の中に暮らす俳人という存在に肉薄しているようには思えなかった。

 日本人のリズム感覚として、五音と七音の組み合わせが、おそらくは自然なのだろう。その証として(専門俳人の人間は無視したがるような)「なんとか川柳コンクール」「なんとか俳句コンクール」といったものが数多く存在するのだと思う。また俳人たちは(これは歌人たちもそうだが)、一般社会で飲みの場において「ここで一句!」と言われるのを嫌がる。俳人・歌人らの嫌悪感情はまず措いておいて、そうした場があるということは「俳句(あるいは歌もそうかもしれない)は、日本人の庶民感覚においても意思疎通に一役買える」との事実を示していないか。

 無論、俳句を専門的にすればするほど、人はそのような俗っぽさを嫌がる。私自身、俳句に身を入れてから五年が経つ。だが最近は、そういった俗っぽさを受け入れなければ、自身で俳人は名乗れないのでは、と思うようになった。

 ここからは私の勝手な理屈にすぎないが、俳人としての「俗」になんとか堪えうるために俳句には定型と季語があるのではないか。人は自身のリズム感覚を自分では決められない。人が自分の一生、自分の寿命など皆目分からないのと同じように。そんなちっぽけな存在からすると、十七音の伝統的な詩型に身を添わすことが出来るのは、幸運以外のなにものでもない。

 また、季語は春・夏・秋・冬・新年に大きく分けられるが、俳人として季語をもって世界に向かうということは、自然さのなかで自分の輪郭がはっきりとしてくる営みでもある。少なくとも私にはそう感受されているが、我が身ひとつの感覚なので一般性があるかは不明である。

 ただ一つだけ言えることは、他者性などと大上段な物言いをしなくとも、俳句にとって「一人の人間として自然に向かう」という営為を忘れてはいけない、ということだ。己は周りに生かされている、ということを忘れてはならない。

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