悪口を聞く
人の忠告を聞くのは心苦しい。それが真にせまっているのならば尚更だ。それが自分にとって損か得かは脇に置いておいても、とにかく自身の耳に痛いことを聞きつづけるのは苦痛である。
かと言って耳触りのよいことしか聞かないのも考えものである。古くから「良薬口に苦し」とはよく言われるが、人にとって不快なものや苦痛なものを摂り入れなければ、その人の成長・成熟はない、との真実を表したものだろう。
昨今は「ポリティカル・コレクトネス(PC)」ということがよく言われる。「ハラスメントを許さない」ということも同程度言われる。勿論それらは大事に違いない。PCという言葉を使おうが使わなかろうが、相対した人には気遣いをもって振るまうべきである。ハラスメントで訴えられても、あるいは訴えられなくとも、言動に対して自分で自重するのは当然のことだ。そのような情緒の一貫性が人々の中で共通していなければ、早晩社会は立ちゆかなくなってしまうだろう。
近頃、社会全体に対して人々の不満がわき出ている理由は、そのような情緒の一貫性、気配りというものがなおざりにされているからではないか。
飲みに行くだけで政治家についての黒い噂を聞く。その噂そのものは真偽が定かでない。しかし、定かでない悪口で庶民は盛り上がれるということは事実ならば、それは政治家と庶民、ひいては政治と生活がかけ離れすぎているからでは、と私は焼き鳥を食べつつ思ってしまう。
もちろん、一千円あれば満足して帰宅する者の意見など聞くに当たらないだろうが、声高に「ポリティカル・コレクトネス」を叫ぶ人たちは果たして幸福なのか。私にはそうは思えない。
これはあくまでも私見だが、PC等に代表されるような主義主張するための概念は大いに問題がある。それらのイズム、主義主張に仮託すれば仮託するほど、それと正反対の言動をしている人を許せなくなってしまうためだ。男性と話をすると緊張してしまう女性がフェミニズムに飛びついた場合、女性に対して物腰をおろしてすり寄ってくる男性を許せるだろうか。おそらく許せまい。グローバリズムによる世界相互扶助を夢みる男が、地産地消している人々を許せるだろうか。許せないだろう。
人間は自身の信条を声高に語りながら、それとは真反対の「悪口」を聞けるほど器用にはできていない。信じているその力が強ければ強いほど耳をふさぎたくなるように出来ている。だから、人文科学的な概念を客観的真実にすると厄介な事になる。社会のために、いや一人一人の人間のためにそんな厄介ごとはさけるべきだ。
私自身、まだ厄介ごとからは自由になれていない。ただ、何をできた時、一人の人間は幸福なのか、を考える段階に来ている。
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