詩と死

 詩人は早逝する者が多い、とはよく言われることだ。だが、何故そうなるのかという理由については、あまり明確に言語化される場面は少ない。「詩」と「死」では韻を踏んでいて近しい、とか、詩人は感性が鋭敏すぎるので、わが身のほろびについても素早く感知してしまう、などと言われることは多いけれど、何か(例えばどじょう掬いで取り逃がした時のように)しっくりとくる理由がこちらに残らないのではないか。
 そもそも何故詩人はこの世に「詩」という形で作品を残そうとするのか、そこから考えてみるのが一番の近道であろうが、詩とはどのような型を取るのかすら曖昧な現在である。ひとまず、散文と比して、音韻や音数律による型によって限られた形に表現を凝縮したものを「詩」と呼んでみよう。その場合、一番強度のある、凝縮度の高い詩とはどのようなものとなるか。相反する二つのものーー真偽、善悪、美醜、生死ーーを十全と入れ込んで描き切ったものとなるに違いない。おそらくはその作品の創作直後は恍惚たるものとなるだろう。
 しかしながら、詩人その人自身は一つの人生をしか生きていないというのは間違いのないことだ。そのたった一つの真実によって、詩人は自らの詩によって白刃の刃をつきつけられる。人生は過ぎているのかも分からず、永遠と一瞬という相反する矛盾を抱えこむこととなるのだ。人は矛盾するもの同士を心のうちに長く抱えこめるほど、強い存在ではない。詩人と呼ばれる者はみなこの世界に参画することとなるが、この相反するもののバランスを自身で取らざるを得ない、タイトロープの人生に耐えられなくなった者は亡くなっていく。詩人に早逝者が多いというのは、この自然の摂理に素早く気づき、生き急いでしまうという人の真理を物語っているのかもしれない。

活字的キャンプ生活

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