二つの「狂人日記」

 学生時代に魯迅・著「狂人日記」を授業で読んだことがあった。ありていに言えば「被害妄想」「関係妄想」に悩まされた人物を取り上げ、彼が書き記したとする日記によって現代中国にも残る古い因習を糾弾する作品である。中国という国は儒教による道徳を重んじながら、手ひどい因習の歴史も少なからずある国で、この「狂人日記」では「人喰い」の風習が鍵として語られる。人喰いという行為は(魯迅の生きた近代においても)否定し切れないという近代的切迫感は、現代日本人である私にはあまり感じられない。しかしながら、因習の積み重ねは人は振り切ることができない。その重荷によって気狂いの様相をかもすという描写はリアルなものがあった。

 ただ、この世には魯迅のものよりも私が敬愛する「狂人日記」がある。それは色川武大による著作である。

 こちらは精神病院に入院している患者の一人語りによって小説が展開していく。抜き差しならない幻覚や幻聴、それによりおぼつかない現実自体の認識・感覚、患者は誰にも共有されない自分自身の世界をただ訥々と語る。父・母・弟との家族関係ですらその世界は慰撫されない。それは、魯迅の能動的な「狂人日記」と比べて極端に静謐でありながら怖さが迫る。関係性の中で、自分自身選び取ることもできずにどつぼに落ちていくような感覚だ。

 主人公は院内である女性患者と出会い、共に退院することとなるがまたもや様々な関係の中で抜き差しならない孤独な世界に落ちていってしまう。唸りを上げながら、笑いが止まらなくなりながら、他者と寄り添うことの叶わない彼の生き様は悲痛である。

 ただ、彼は最後に女性を求める。それは幻であろうか、幻ではないのか、判然としない。それでも、孤独に生きざるを得なくとも「相手を求める」その姿は感動的である。

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